メトロポリタン美術館で絶対見るべき日本美術おすすめ22の作品見どころ紹介!

アメリカ東海岸は日本美術の宝庫。時期は大きく分けて二つ。幕末~明治、そして第二次世界大戦後。歴史の大混乱期、日本美術の数多くの名品・作品が海外に流出してしまった。コレクションは吸い寄せられるように、メトロポリタン美術館に集まった。収集と研究はその後も続いています。メトロポリタン美術館が所蔵する日本美術の代表作、豪華コレクションを紹介します。

八橋図屏風 尾形光琳 1709年頃

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描かれてるのは、かきつばたです。なのになぜ「八橋図」なのか。これは、「伊勢物語」の東下りの段、旅人が川が複雑に分かれ、八つの橋のかかるかきつばた咲き乱れる場所で歌を詠む(ら衣 つつ馴れにし ましあれば るばる来ぬる びをしぞ思ふ)に由来します。

濃い藍と緑と金、画面を分断する橋が重厚感あふれ、力強い。この絵をさかのぼること10年、もう一つ、光琳の「燕子花図」があり、根津美術館所蔵、国宝。根津のかきつばたの群れは華麗にして艶。「琳」は「琳派」の「琳」、そして尾形光琳の手掛けたジャンルは屏風絵等、絵画にとどまらず、工芸品や小袖、書、焼き物、染付など幅広く、ええトコの御曹司(京都の呉服屋さん)で有力なパトロンが何人もいて、作風のとおり豪奢で痛快な江戸時代のマルチな美のデザイナーの名がふさわしい。

鳥取藩藩主池田家伝来。1953年、アメリカがこの絵を購入。のちに、光琳の真筆と鑑定されました。(渡米当時は真贋がはっきりしていなかった)偽物なら、と輸出を許可したのに。勿体ないことをした…。

 

朝顔図 鈴木其一 19世紀はじめ

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同じく金と藍と緑の饗宴。色遣いは同じ、草花を扱っていることも同じ。こちらはより女性的かな~。流れるような朝顔の葉と蔓がリズミカルで、めでたくも流麗な琳派の美の名品。尾形光琳に続いた琳派の雄、鈴木其一。先日日本で大規模な回顧展が開催され、この絵も里帰りし、画力の高さにうなった見学者は数知れず。江戸の染物職人の家に生まれ、江戸琳派のもう一人の雄、酒井抱一に弟子入りし、頭角を現し、この二人は江戸の琳派を代表するビックネーム。そして琳派は富裕層・文化人層あってのジャンルで、豪商・大名・知識人を顧客に抱え、琳派の円熟期・完成期の大胆かつ華麗な大作のかずかずは、琳派の日本美術史の位置を決定づけた。繚乱の江戸文化にふさわしい。金箔で空間を。緑青で草木を。群青で渓流をねっとり~の色遣い・筆遣い、過剰では~!?と言いたくなってしまいたくなるほど色濃く書き込んだ「夏秋渓流図」(根津美術館蔵)なども代表作です。。

 

桜花図屏風 酒井抱一 1805年

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ホントは光琳と其一の間に持ってくるべきなのですが。其一の師匠、江戸琳派の礎、酒井抱一。お殿様(姫路藩主)の弟の子。江戸生まれ、江戸育ち。絵に限らず、俳諧、国学、お能、などもたしなむ、筋目正しき遊蕩好きの!?貴公子。でしたが37才で出家。尾形光琳にのめり込み、光琳や乾山の模写の画集を出したり、光琳の百回忌の法要を主催したり。そして光琳に傾倒しながらも独自の境地を切り開いていきます。琳派の豪壮華麗さを意識しながらもよりたおやかな表現。抱一様式とも呼ばれた。

この絵は、上2/3の金箔、下1/3の銀箔。浮かび上がる葉桜の葉の色はあえてのオレンジ。幽玄の世界だ。代表作「夏秋草図」(東京国立博物館所蔵、重要文化財)(敬愛する琳派の祖、俵屋宗達を模して描いた光琳の「風神雷神図屏風」の裏に、風神の風にあおられる秋草と雷神の雨に打たれる夏草を総銀箔をバックに描いた)に通じるものがあります。

 

老梅図 狩野山雪 1646年

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この絵は、メトロポリタン美術館の公式ガイドブック(11か国語版があり、ショップで全部めくったわけではないが掲載されている作品は共通のはず)の裏表紙に採用されている。(ちなみに表表紙はジャン=レオン・ジェロームの「バシボズク」)あえて老木を持ってくる。若木であれば、より多くの花がつきます。そして梅の木も人間と同じ。年をとれは樹形が変わり、枝を延ばす力が衰え、幹は割け、いわゆる「臥龍」と呼ばれる樹形となる。こっちの方が風流ではある。この木、いったん倒れたのですね。幹がまず横に倒れ、さらに上に伸び、下に伸び、また空に向かい、上に伸びる。そして年老いた梅の木は、己のエネルギーを振り絞って、長い冬の終わりに、それでも花を咲かせるのです。つぼみは朱。花は白梅。この絵のテーマは、時代と世代と人種を超えて悩める人々の心をとらえ、胸を打つ。

総金箔。琳派じゃなくて絵師の名がしめすとおり、狩野派。琳派が江戸のニューウェイブなら、狩野派は室町時代の足利将軍家御用達にさかのぼる由緒正しき日本絵画の系譜。もともとはご覧のとおり、襖絵。京都の妙心寺の一角の奥襖絵だった。お寺が火事にあい、再興資金にあてるため、この絵は片岡 直温(かたおかなおはる 明治~昭和初期の実業家・政治家)の元に。のちに日本美術のコレクターとして名高いハリー・パッカードに。そしてメトロポリタン美術館に。

もちろん、不屈の魂を感じさせるこの絵は狩野山雪の代表作。

 

月下白梅図 伊藤若冲 1755年

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メトロポリタン美術館の伊藤若冲は美術館のHPで検索かけたら13点。選んだのは満月の光を浴びて白い炎が燃え立つような、清冽な梅の花の絵。同じ梅でも上の山雪の絵と花つきが違いすぎることにも注目!この絵が描かれたのは1755年。若冲が家督(京都の青物問屋)を弟に譲り、晴れて画業一筋に打ち込むこととなった年です。後年の若冲の代表作「動植綵絵」中にも同じ構図の絵があります。(日本の王室、つまり皇室蔵。三の丸尚蔵館所蔵)若冲といえば最高級の画材を使い(だから色彩鮮やか)とことん写生にこだわり、細部までびっちりと精緻に書き込む。近づいて書き込みの細かさと正確さに見とれ、下がって絵全体を見れば。どの絵も異様な熱気とも幻想的ともつかぬ独特の作風は○○派、ナントカ系に収まりきらない。若冲だけのオリジナル。この絵は、個人収集では質・量ともに日本国外では最高と言われる日本美術の収集家、メアリー・グリッグス・バーク夫人のコレクション。夫人が亡くなったあと、2015年、メトロポリタン美術館に寄付されました。

 

北野天神縁起絵巻 13世紀後半

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この画面、今どきのゲームの炸裂シーンのようだ。「北野天神」とは現北野天満宮。菅原道真を祀った神社。あまりに出来すぎの道真は妬みを買い、無実の罪で大宰府に流され、流刑先で無念の生涯を終える。すると…。ゆかりの人間が次々に奇怪な死を遂げ、台風・干ばつ・疫病・飢饉と天変地異が立て続けにおこり、人々は道真の祟りだと恐れおののき、北野天満宮を立てて道真の霊をなぐさめた。を描く北野天神縁起絵巻はいくつも作られており、本家本元、北野天満宮所蔵のいわゆる承久本は国宝。こちらのメトロポリタン本、弘安本、根津本。少しずつ内容が違います。

描かれている九頭九尾の化け物は地獄在住。切れてしまっていますが燃え盛る炎の中には生前道真をおとしいれた人々が炎に焼かれ、苦しんでいる。画面中央向かって右の山伏の姿の使いの者は、戻って帝に一部始終を報告するのです。

 兵庫の天台宗太山寺伝来。幕末の英雄で明治の元勲、井上馨侯爵がが愛蔵していたことでも有名です。侯爵の死後、山中商店(東洋美術の名品を世界に売りさばき、日本の美術工芸の水準の高さを世界に知らしめた伝説の美術商)の仲介で、1925年、メトロポリタン美術館が購入。

 

観音経絵巻 1257年 

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まずこの綺麗な色遣いを見ていただきたい。赤が、朱が、緑が青が、ここまで鮮明に残っている。これだけの状態良好な時代を経た絵巻物は、世界広しといえどもこの1点のみ。日本の鎌倉時代の、そしてメトロポリタン美術館の誇る仏教絵画です。

正確なタイトルには「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品」 。頭に「何無」(私は仏さまに従いますの意味のサンスクリット語)を付ければ、「なむみょう~ほうれんげ~きょ~う」です。インドの法華経を鳩摩羅什が漢訳したのが妙法蓮華経。30章に分かれており、観世音菩薩普門品は第25章。生きていれば、否が応でも辛い目にあう。苦しい時もある。観世音菩薩さま慈悲深いお方、我々が観音さまの名前を信じてひたすら唱えれば、必ずその声は観音さまに届いている。救ってくださるのです。

七色の光を放つ、空のかなたの夢のような極彩色の仏塔の中に、観音さまはおわします。金色の雲に乗る、お伴の仏様を従えて。天女は羽衣を翻し、花を振りまき、音楽を奏でます。私たちが観音様を信じで唱える声に耳を傾けておいでなのでしょうか。それとも、悩める私たちを救うため、お出ましになってくださったのでしょうか。

 

保元平治合戦図屏風 17世紀

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屏風ですから、大きい。(154.8×355.6cm)そしてこのジャンルの絵は、時空を超える。目を凝らして見て、いったい何シーンあるんだろう。中央大きく描かれているのは保元の乱中、後白河天皇軍が崇徳上皇軍に夜討ちをかける白河殿夜討。クライマックスシーン。で、崇徳上皇が讃岐に流されるシーンはどこに。弓のつわもの、身長210㎝、左腕が右腕より12㎝長い、水滸伝の怪物を連想される源為朝はどこに。首に矢を受け、敗残のお尋ね者としてさまよう 悪左府(ネチネチしていて好かれない人だったらしい)藤原頼長はどこに。武士が天皇を襲う、三条院焼討はどこに。我が子の命乞いをする絶世の美女にして源義経の母、常盤御前はどこに。二条天皇が平清盛を頼る、いわゆる六波羅行幸はどこに。保元の乱の政争に勝ち、一転して平治の乱では追われる身となり、土の中に隠れたものの(箱に竹筒で空気穴つき)追手に見つかり自害して果てる信西はどこに…。と目を凝らし続けなければ。(単眼鏡を持っていかなければ♪)もともとは出雲藩主松平家所蔵。

 

 柳橋図屏風 17世紀はじめ

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こちらもバーグ夫人のコレクションです。桃山時代から江戸時代初期において流行した柄。金で大きく橋が描かれしだれ、風に揺れる柳の葉。ダイナミックにしてドラマティック、豪放磊落桃山文化にふさわしい。日本にも多くの秀作があり、忽然と歴史に現れ、当時全盛の狩野派を脅かす大躍進・大活躍ぶりに狩野派が焦りまくり、陰に陽に嫌がらせを受けながらも凛として立ち、巨業をなしとげた長谷川等伯の「柳橋水車図屏風」(香雪美術館蔵・重要美術品)が殊に有名。水車!?と思われた方もいらっしゃるはず。長谷川派のお家芸、当時全盛のこのデザインは、橋・柳・半月・水車・蛇籠(大きな竹籠に砂利とか詰めた。護岸用。今のテトラポットみたいなもの)が定番。メトロポリタン美術館所蔵のこの絵には水車がない。蛇籠は画面向かって左の半円形のがそうです。川は宇治川。橋は宇治橋。宇治川は京都郊外。平等院のある所。つまり宇治川は当時の人々にとって、この世にありながらも極楽浄土を連想させる地名なのです。…にしてはなんか不気味な感じが漂う…。気のせいかしら…。

 

源氏物語図屏風「行幸・浮舟・関谷」 土佐光吉 16世紀半ば~17世紀はじめ

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この絵は土佐派。。栄枯盛衰を繰り返しながら室町時代から幕末まで続いた雅やかな大和絵の系譜です。左下には確かに「御幸・関谷・浮舟」とは書いてある。16帖関屋は左、逢坂の関で源氏とかつて契った空蝉はすれ違う。空蝉は人の妻であり、二人の胸に去来する思い。真ん中が51帖の浮舟なのでしょうか…。匂宮の降りしきる雪の中、浮舟を拉致するシーンなんか、54帖中、目玉の見せ場の一つだと思うんですけど、雪は降っていない。二人の男性の間に挟まれ、いっそのこと死んでしまおう、のシーンにしては、お伴の人が多い。わからない。29帖行幸は右、大原の鷹狩のシーンですね。屋外の華麗なシーンを選んで絵巻物に仕立てています。

土佐光吉のメトロポリタン美術館の収蔵品は全部王朝絵巻。平家物語の小督(美貌の琴の名手。高倉天皇の寵愛を受けるも平清盛の逆鱗に触れ出家させられる)のエピソードを画面の随所に描いた絵。のシーン。源氏物語24帖、胡蝶。源氏と女人たちのすむ館の明るく華やかなこの世の楽園のような、春を祝うセレモニーの絵など、王朝女子の心をわしづかみにして離さない優美な作品はため息もの。

 

信楽焼の壺 14~15世紀

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信楽焼は日本の古窯のひとつ。元々は生活の器を内輪でひっそり作って使っていたのでしょうが、京都に近かったことと、かの千利休がわび・さび(自分でもよくわからないことを書くことをお許しください<(_ _)>)を民家で使われていた信楽の壺に見出し、茶の湯に使ったことから一挙に芸術の域に格があがった。ましてや室町時代の壺ともなれは、作例がそもそも少なく、今に伝えられ、見目麗しく、保存状態が一定のレベル以上、しかも大型(高さ46.7cm、直径39.4 cm)ともなりますと、なかなかお目にかかれない。信楽の魅力は土の色をそのままに。炎の跡も焼いてる途中で灰が落ちてもそれが味になる。個性になる。素朴さと荒々しさを、先人は並ぶものなきと珍重したのでありましょう。

 

 柿右衛門深鉢 有田焼 17世紀末

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有田、伊万里の色絵磁器は染め付けは、まず白い肌の透明度の高さ、そして色出しの美しさと柄ゆきの可憐さ。蓋つきのこのフォルムはヨーロッパへの輸出用だから。色絵磁器といえば、誰が何と言おうとも総家元!?は中国の官製窯、景徳鎮。当時、ヨーロッパでは景徳鎮窯のファミーユベルトと呼ばれる白地に透き通るかのような緑の細かく精緻な模様の染付けが大人気で、この器も緑色が目につくし、花鳥の文様も中国風。顧客のニーズに応えたのですね。フタと器がお揃いなのは大変に珍しく、名品を手に入れるメトロポリタン、さすがです。

そして中国風とはいえ、柿右衛門といえば赤。それも、真っ赤じゃなくて、柿色。オレンジがかった赤ですね。景徳鎮の影響を受けながら、謹製日本製!を主張してくれているのはうれしいかぎりです。お花は芍薬と菊。岩の上の青と緑の小鳥が愛らしい。

有田や伊万里は江戸時代、ヨーロッパで珍重され、メトロポリタン美術館にも色鮮やかに輝く品々が数多く収蔵されています。

 

 石橋図 曽我蕭白 1779年

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お能の演目「石橋」。現在の中国浙江省天台山。(日本の「天台宗」のいわれでもある。最澄さまも訪れた仏教の聖地)お坊様が天台山の石橋を渡ろうとすると少年が現れ、橋の向こうは文殊菩薩がお住まいになられる浄土であり、修行を積んだものでも渡ることは難しい。ここで待てば文殊菩薩さまがお姿を現すだろう。と言いおいて去ります。お坊様がじーっと待っていると、文殊菩薩さまのしもべであり、使者でもある獅子が現れ、牡丹の花が咲き乱れる中、神がかった舞を見せるのです。

をベースに江戸時代の、そして屈指の奇想異端の巨匠絵師、曽我蕭白は、断崖絶壁を駆け上がり、文殊菩薩さまのおわします清涼山を目指す小獅子のおびただしい群れとそれを見守る母獅子の姿を描きました。まず発想のユニークさに呆気にとられ、そして小獅子の必死の形相、懸命なしぐさが見事でもあり可愛らしくもあり。ある小獅子は宙を舞い、またある小獅子は石橋を渡り切れず、雲海に落ちていく。

この絵、日本美術ですよね。で、こんな絵を描く人、いたんだ…。しかも、江戸時代に。の驚きさめやらず。この絵もバーク・コレクションの目玉の一つ。

 

 鎧兜(足利尊氏が寄進) 10世紀~14世紀初頭

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白糸威褄取大鎧(しろいとおどしつまどりおおよろい)。漆塗りの鉄板や革を白の絹紐で組み上げるから「白糸威」。古典の授業中、平家物語とかで「○○威の鎧着て」のくだり、しょっちゅう出てきましたね。スカートみたいに5段に下がって腰から太ももを守るのが「褄取」。「大鎧」(偉い人)「銅丸」(中間)「腹巻」(一兵卒)と、身分により使う鎧は異なる。腕の部分のパーツがないのですが、寄進した最初からなかったのか、いつの御代にかなくなってしまったのかは不明。

鎌倉時代末期、足利尊氏が京都の篠村八幡宮に打倒!鎌倉幕府の戦勝祈願のためにこの鎧兜を寄進し、戦いにおもむいた。胸板に描かれているのは不動明王さま。めらめら燃える炎と勇ましいお姿は武将が身に着けるにふさわしい。同時代の大鎧(ただし袖付)は日本では国宝です。重さ17.2㎏。

京都松井家が所有。明治末期に、京都の美術商、時代屋からバシュフォード・ディーン(アメリカの生物学者にして日本の甲冑コレクター)が購入。1914年、メトロポリタン美術館に寄付されました。

 

冨嶽三十六景 神奈川沖波裏 葛飾北斎 1830-32年

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フランス共和国に印象派の巨匠、クロード・モネの「ルーアン大聖堂」連作があるなら、我らが日本国には葛飾北斎の「冨嶽三十六景」がある☆彡作品数はピカソの45,000点には負けてしまいますが、生涯30,000点。世界一有名な日本人の絵かきは間違いなく葛飾北斎。世界一有名な日本の絵は間違いなくこの1枚。ゴッホはのめりこみ、作曲家ドビュッシーの交響詩「海」の、詩人リルケの「山」のインスピレーションの源となり、世界のアーチストがこぞって絶賛の嵐。ドラマチックで息をのむ大胆な画面構成。藍と白のコントラストとコンビネーションは、まさに日本美術のアイコンの名にふさわしい。

葛飾北斎、別名画狂老人卍(まんじ)。ひたすら描いた。絵が描ければそれでよかった。部屋には店屋物のごみが散乱し、収拾つかなくなれば引っ越す。(ちなみに引っ越しは生涯93回)着ているものはボロボロで、画料は包みのままほっといて御用聞きには見てもいない包みをそのまま渡す。不愛想で偏屈。ただもう、描きたい。90才で亡くなる間際の言葉が「天があと5年、私を生かしてくれたなら、真の画工となれたものを」の気迫に、私たちも勇気を奮い起されます。画業は縦横無尽、快刀乱麻。

 

三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛 東洲斎写楽 1794年

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出たぁ~!!と思わず歌舞伎の大向こうの声かけしたくなっちゃいますね。超有名なこの絵はメトロポリタン美術館のほか、ボストン美術館、シカゴ美術館、東京国立博物館、大英博物館所、立命館大学に所蔵あり。

忽然と現れ、活動期間はわずか10カ月。150枚あまりの作品を残し、姿を消した謎の浮世絵師、東洲斎写楽。役者絵は、今のファッション写真であり、ブロマイド写真であったはずなのに。奇想天外なデフォルメと役者は美化してまたは役柄として画面に現れていたのに、演じる人間そのものをえぐり出すかのような浮世絵。そして浮世絵って、今のプロデューサー、版元あってなので、人気がなければ、売れなければ次はない。立て続けの出版は人気のバロメーター。なのになぜ、歴史のかなたに消えて行ってしまったのか。そして東洲斎写楽は、何者なのか。今なお、謎のまま。

 

難波屋おきた 喜多川歌麿 1790年代

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おきたちゃんは16才。今なら中~高校生。でも寛政時代は花の盛りの女の子。浅草は浅草寺随身門わきの水茶屋の看板娘。寛政三美人は難波屋おきた、高島屋おひさ(両国のせんべい屋さんのお嬢さん)、富本豊雛(吉原の遊女にあらず芸者さん、浄瑠璃のお師匠さん)。中でもおきたちゃんは清純、はつらつ、颯爽。歌麿の絵の効果もあって浅草観音かいわいの水茶屋はどこも大繁盛。おきたちゃんを一目この目でと男どもは群れをなす。難波屋の前の人多すぎ、商売に差し支える、困ったもんだ…思い余って水をまいても効果なし。それでもおきたちゃんは明るくテキパキとお仕事に励み、お高くとまることもなくお客さんとも気さくにお話していたそうです。髪は娘島田。淡いくすんだ緑(摺りたては水色だったのかも)の単衣に黒繻子の幅広の帯。

女を書かせたら日本の筆頭は喜多川歌麿。時代が下がると続いて鏑木清方、上村松園、伊東深水。この浮世絵は歌麿円熟期、絶頂期の極め付けの1枚です。

 

美人大首絵 渓斎英泉 1825年

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ご紹介した巨匠の代表作3枚の大スタンダードから打って変わって、アクが強くでデカダンかつエクセントリックな浮世絵をどうぞ。渓斎英泉(けいさいえいせん)。正統派の美人画からは離れてしまいますが、一目見て忘れられないインパクトのある生身の女を感じさせる。様式美で一時代を築いた人気浮世絵師として。時代は江戸末期。文化爛熟世の中段々政情不安定…の時代に、ジョジョ立ちの傾城の女はまことにマッチしていた。風景画も描いているのです。しかし悲しいかな私レベルでは英泉なのか広重なのか見分けられない~。

英泉はもともとは下級武士だったのですが、上役とケンカして武士をやめて狂言作家を目指し、あわせて絵を学んだ。この画風です。本領は実は春本春画にあったとも。当然その手のお店のお得意様でお酒と女が大好きで放蕩三昧。ついには自らも娼家を経営する。とともに浮世絵では弟子を多数抱え、滑稽本なども書きまくり、無名翁の名前で書いた「無名翁随筆」は別名「続浮世絵類考」。浮世絵師の人名略歴作風代表作が記されており、後世の研究家は大助かり。

 

花鳥蒔絵螺鈿書箪笥 16世紀後半

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浮世絵師や陶工は名を残す人もいるけど、漆工の匠の名前は…少なくても私の狭い見聞の中では、思い浮かばない。しかし桃山時代、日本を訪れたスペイン人、ポルトガル人は日本の漆細工、蒔絵に目をつけた。軽くて持ち運びしやすく、丈夫だし、ゴージャス。華やか。キレイだ。そして自分たち用に、輸出用にオーダーする。このタンスはヨーロッパ仕様です。そして黒と金だけだった蒔絵に螺鈿が加わった。貝がらの裏側、虹色に光るところを磨き上げて好みの形に切り出して貼り付ける。黒・金・虹色の海外仕様のデコラティブな蒔絵は「南蛮漆器」と呼ばれます。上でご紹介したヨーローッパの室内装飾なんか見ると、なんとなく納得。ヨーロッパの人はこの手の模様がお好き。顧客の要望に応えるのは、ものづくりの鉄則。蒔絵は日本のお家芸。でもこのタンスは日本純正の意匠でないことだけ、押さえておきましょう。

 

蔵王権現立像 11世紀

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1,300年前(奈良時代)に行基さまが開かれた由緒正しき京都の迎接寺にあったこの像。日本にあれば国宝クラスです。まず、製作が平安時代。古い。そしてお顔はこわいけど、軽やかかつ品のあるボディライン。戦後、村に電気を通すためにお寺が手放し、日本の収集家から伝説の日本美術収集家、ハリー・パッカードの手にわたり、1975年、メトロポリタン美術館にやってきた。昔、権現さまは右手に三鈷杵(さんこしょ・密教の法具)を手にされていた。三鈷杵で魔を退治するのです。左手は剣印。いわゆるチョキ。魔を断ち切るのです。右足が上がっている。魔を踏み砕くのです。怒れる仏さま、戦う仏さま。

蔵王権現さまは仏教の仏さまではあるのですが、インド由来ではなく、日本生まれの仏さま。長崎の隠れキリシタンみたいなかんじで、山岳信仰と仏教がむすびついて修験道が生まれ、日本で独自の発展を遂げた。役小角(飛鳥~奈良時代の呪術者)が権現さまの姿を霊感で感じ、その姿を桜の木に刻んだのがはじまり。

村に電気をひくためにお寺さまが秘仏を手放すなんて。美談にしてしまうにはちと胸痛むものがあります。日本政府も、海外に持ち出してはいけないクラスの仏像であることはわかっていた。それでも今、権現さまははるかアメリカのニューヨークにいらっしゃいます。

 

地蔵菩薩立像 快慶 1202年

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解体修理の際、仏像の頭の内側に銘が記されており、鎌倉仏師いや日本仏師の最高峰、運慶快慶の快慶作と断定された。こちらもバーク・コレクション。

快慶の仏さまは平安時代の仏像の未来発展型。定朝の流れをくみ、素直に仰ぎ見、祈りを捧げたくなる仏様。仏像の枠を超え、その先の表現に大胆に切り込んだ運慶もカッコよすぎですが、穏やかに佇む快慶は、並び称され超絶技巧の仏師であることに間違いない。ラファエロみたいなものでしょうか。(平明すぎてあれこれ言いたい人にとっかかりを掴ませず、言及されにくい)

お地蔵さまは剃髪している。つまりお坊さまの姿で、人の苦しみを引き受けてくださる。そして親より先に死に、親不孝の罪で賽の河原で石を積む子どもたちを守ってくださるのも地蔵菩薩様。左手に如意宝珠、右手に錫杖。お袈裟の流れるラインを模様が美しい。快慶の仏像は、後期になると表情がどうも画一的、とか言われてるのですが、このお地蔵さまを作ったころは比較的初期のもので表情がみずみずしい。

 

不動明王坐像 快慶 13世紀はじめ

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 平明、穏やかと言っておきながら、怒れる不動明王さま、快慶作。こちらもバーク・コレクション。

不動明王さまはインド生まれ。空海さまが日本に伝えた。インドや中国では作例が少ないのです。しかし日本では大人気。日本では密教が大流行し、密教のメインの仏さまであり、今でいう普及啓発の度合いが凄まじく、また成功したのですね。

不動明王さま、怒っています。実は大日如来さまのまたの姿(変身できるのですね)。仏さまの教えから離れる、言うことをきかない者どもを本気になって、力ずくででも正しき道に導きたい。人の心にある弱さを打ち砕き、救いたい。救うのだ!絶対に救うのだ!と松岡修造さんなど及びもつかぬ熱さ激しさで燃えに燃えていらっしゃる。だから、怒ったお顔でいらっしゃるのです。目を剥き牙を見せる忿怒(ふんぬ)相、剣と投げ縄をお手にされています。つまり現世の苦しみを救ってくださる神様なので無病息災、家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願、なんでもお願いしてかまわない。密教にとどまらず、ほかの宗派でもご本尊として広く日本人の心をつかみ、信仰されてきた。

京都の青蓮院伝来だったらしい。この仏像の製作されたとおぼしき頃、快慶が青蓮院で働いた記録は残っている。しかし肝心の仏像の記録がないので断定できないのですが。

 

 

 

終わりに

こちらもぜひご覧ください。

 

メトロポリタン美術館の日本美術以外のダイジェストと

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アメリカ東海岸のもう一つの日本美術の殿堂、

ボストン美術館の日本美術中心のダイジェストです。 

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